2023年7月4日、国立西洋美術館(東京・上野)で3Dデータを活用した新たな展示がスタートしました。20世紀を代表する建築家の一人、ル・コルビュジエにより設計され、2016年に世界遺産登録された国立西洋美術館本館の建物の魅力について、3Dデジタルデータを活用した新しい体験を通じて楽しみながら理解を深めてもらおうという取り組みです。
国立西洋美術館(東京都台東区上野公園7-7、館⾧・田中正之)は1959年に竣工した本館の3次元モデルを利用したデジタルコンテンツ「ゆびさきでめぐる世界遺産-ぐるぐる国立西洋美術館-」を,2023年7月4日(火)より公開します。このたび公開するデジタルコンテンツは空間再現ディスプレイとスマートフォンを用いた2種類。どちらも世界遺産である国立西洋美術館本館の普段は入ることができないところまで、ゆびさきでぐるぐるめぐる体験ができます。
「世界遺産『ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―』の構成資産の一つである国立西洋美術館本館は1959年に建設されました。建築物は一般的に設計図面をもとに建設されますが、建設当時の設計図面が保管されていないことはめずらしいことではありません。図面が残っているケースであっても、施工時に生じる誤差や現場での変更が反映されていなかったり、劣化による経年変化、維持管理のための改修工事などによって当初の設計図面には表現されない変化が生じてきたりします。現在の建物の正確な情報を知り、将来のために残しておこうとすれば実測して記録する必要があります。改修前には現場の各寸法を『野帳』に手書きで残すのが一般的ですが、大変手間のかかる作業のためすべての寸法などを記録し図面化するのは現実的ではありません。一方で、世界遺産や貴重な文化財が焼失したり倒壊したりするような事案も現実に起きています。世界遺産となった当館も何かよい方法で、できるだけ広範に、そして正確に記録を残しておきたいと考えていました。近年、リニューアルやメンテナンス工事などに活用されている3Dレーザースキャナーや点群データは、当館では設備機器更新時に利用したことがあり、文化財にも応用することができれば、今の状態を高い精度で記録できると考えました。唯一無二の文化財を守るという観点から見れば、3Dレーザースキャナーによる計測の費用対効果は非常に高いと言えます。計測した3Dデータを文化財の維持管理や保護はもちろんのこと、フォトグラメトリーの技術も用いて当館の魅力を多くの人に知ってもらうために活用できれば、3Dデータの価値はより一層増すのではないかと考えました」(国立西洋美術館 世界遺産担当室 福田京氏)
3Dデータの活用が文化財にどんな新しい価値をもたらすのか、新しいテクノロジーの組み合わせで文化財の分野にどんなイノベーションをもたらすことができるのか―。
エリジオンは数多くの文化財のデジタル化に携わる機会にめぐまれてきたため、3Dデータの活用に関する課題や現場の管理者の苦労などへの理解は深めていました。
例えば、ヘッドマウントディスプレイを使ったVR展示が企画されることがありますが、この方法は感染症対策などの観点からも複数の説明員を常時配置する必要があり、オペレーション上の負担が管理者にとって大きな課題になります。
3Dスキャンで取得できる点群データは、従来の手法とは比べものにならないほどの精度と時間で広い範囲を立体的に再現できます。専門家から見ても十分すぎるほど価値のあるデータを得られますが、その一方で、高精細の写真や動画に日ごろから慣れ親しんでいる一般のお客様に楽しんでもらうためには、見た目の美しさという面において、点群だけでは一定の品質を確保することが困難です。文化財への理解や愛着が醸成できる3Dコンテンツに仕上げ、さらに運用面でも実現可能な企画にするには、点群にとらわれない技術の組み合わせやアイデアが必要でした。
何度も議論を繰り返し、熟慮の末、エリジオンが制作したのは得意とする点群データそのもので表現・製作するコンテンツではなく、デジタルカメラで撮影した大量の写真をベースに高精細な3Dモデルを構築するフォトグラメトリーの技術を活用した3Dコンテンツでした。3Dスキャンにより取得した点群データは、その正確さからエンジニアリング用途ではプロフェッショナルの要求を満たす精度を担保する一方で、点であるがゆえに色彩としての表現には限界があります。そこで、フォトグラメトリーによる3Dコンテンツ製作に定評があり、以前から協力関係にあった太陽企画株式会社(以下、太陽企画)に協力を依頼しました。
「フォトグラメトリーは主にデジタル一眼レフカメラで撮影した写真から3Dモデルを生成しますが、建物などの大きなスケールのモデルの3Dデータを製作するには写真だけではそのサイズを正確に表現することが困難です。特に今回は、世界遺産の建築物そのものがコンテンツの中心となり、外観だけでなく構造も含めて正確に表現しながら、建物の魅力を通じて広く一般の人の琴線に触れるコンテンツを目指す必要があると考えました。私たちエリジオンが得意とする点群データ処理と、映像製作を得意としている太陽企画さんの技術力の組み合わせで、新しい価値を生み出すことにチャレンジしたいと考えました」(エリジオン)
3Dモデルを活用することにより、鳥のように自由な視点で壁を通り抜けながら建物の内外を見ることができるようになったり、好きな場所で自由に断面を切ったり、実際には体験できない表現を可能にします。
「西洋美術館本館は『無限成長美術館』の構想に基づいて設計されました。この構想の基本的な原理は、中央のホールから渦巻きのように外側へ展示室を増築していくというものです。外壁の窓と中3階のバルコニーは、現在の建物の外側へ次の展示室を増築した際に動線をつなげるためのもので、バルコニーの一方は中央の19世紀ホールと繋がっています。外に展示室が増築されると窓がふさがれてしまうため、屋上からの自然光を採り入れるように考えられています。この部屋は照明ギャラリーと呼ばれ、一方は2階の展示室に、一方は屋上から飛び出しています。ここから自然光を採り入れたり照明器具を設置したりして作品を照らします。このようにさまざまなところで空間が立体的に繋がる設計が施されていることこそが西洋美術館本館の素晴らしい特徴ですが、現在は安全上の配慮からほとんどの場所を非公開としています。言葉では理解することが難しいこれらの工夫や特徴を、広く多くの人が直感的に理解できる分かりやすいコンテンツを作りたいと考えました」(福田氏)
そして本館の3Dスキャンデータをもとに2種類のコンテンツが製作されました。
一つ目は、本館の特徴的な場所をスマートフォンで楽しめるコンテンツです。館内5カ所に設置した二次元バーコードをスマートフォンで読み込み、主に非公開ゾーンを歩くように体験できます。
「西洋美術館本館は、自分がどこにいるか分からなくなるようなところも魅力の一つです。スマートフォン用のコンテンツでは天井付近まで浮き上がって窓の外まで移動し、空から建物を俯瞰して見られるような動きを作りました。いま自分がどの場所にいるのか、目の前の壁の向こう側はどんな空間が広がっているのかを把握できる面白さが演出できたと思います。他にも、普段は登ることができない階段の先に進むことができるコンテンツも用意しています。現実世界では回避することが難しい制約を、先進的な技術の組み合わせによってクリアすることで、来館者の好奇心を満たしたり、より多くの方に『もっと知りたい』と思っていただけたりするのではないかと考えています。これまでも模型、写真、文章などで工夫しながら説明をしてきましたが、皆さんに直感的に理解していただけるようになったことをとてもうれしく思っています」(福田氏)
もう一つは、ソニー社の空間再現ディスプレイELF-SR2に映し出した本館の3Dデータを来館者が自由視点で立体的に見られる3Dコンテンツです。
「エリジオンのコンテンツ提案の中に含まれていた空間再現ディスプレイを最初に体験した際には、自然と声が出てしまうほど驚きました。特別な機器を装着することなくディスプレイを裸眼で見るだけで、想像以上に建物が立体的に見えることに感動しました。今回の展示では、フォトグラメトリー技術を使って製作された写真画質の3Dモデルと新型のディスプレイの高解像度技術が相まって、紹介したいポイントが細部まで美しく表現できている点にも満足しています。本館の丸柱は『姫小松』という木目が美しい木材の型枠を使用してコンクリート打設されており、表面に木目が美しく浮き出ているのが特徴です。ル・コルビュジエ自身が作品集の中でこの仕上がりを高く評価しています。今回の展示で使用している新型の空間再現ディスプレイ(27インチ版)ではこの細かな美しい模様の凹凸がまさに立体的に再現されています」(福田氏)
「空間再現ディスプレイは見ている人の視線を認識しています。少ししゃがんで視線を下げるとそれに合わせて建物を真横から見られ奥行きが深くなったり、右から見ると左の壁が見えてきたりするので、立体模型をのぞいているのと同じ体験ができるのも面白い点です。また、コントローラー操作で好きな場所の断面を自由に観察できるのは、今回のコンテンツの新しい価値だと思っています」(福田氏)
「文化財の専門家や管理者が研究や維持管理のために必要な高精度のデータを取得すると同時に、得られたデータを活用して一般の方の理解を深めてもらうためのコンテンツを製作する、という二つの目的を同時に果たすことができたひとつの事例になったと考えています。デジタルアーカイブは一定の費用がかかるため、一部の専門家が必要性を訴えてもなかなか進められないのが実情です。当館のように使用し続けている建物の場合は日ごろのメンテナンスや災害後の復旧にかかる時間やコストの削減と合わせて、幅広く3Dデータが活用されていくことによって、その価値や必要性が認知されると思います。今回のコンテンツが、西洋美術館の本館に対するより多くの人の理解を深めることに繋がり、この唯一無二の近代建築の存在を大切に思い、存在自体を誇らしく思ってくれる人が増えたらと願うとともに、文化財を守りながら活用していくための新たな表現方法として、文化財管理者の参考例のひとつとなれたらうれしいです」(福田氏)
* 特別展示期間は終了しましたが「19世紀ホール」(フリーゾーン)にて引き続き体験できます
太陽企画株式会社 / NTTコミュニケーションズ株式会社